国護りと天孫降臨の神話ー御手形石ー

お手形石

お手形石

豊丘村佐原の追の窪というところにお社がありそこに御手形石がまつられています。石の上に大きな手形がついている事から、この名がついたといわれています。
それには、むかしむかし日本のはじまりの頃、大和朝廷時代より以前にまでさかのぼります。
出雲の国(島根県)と高天原(たかまがはら)(日向の国九州高千穂)に大きな民族の集団があり、国土統一のため国譲りの交渉が長くつづいていましたが相方譲らず遂に争いに発展してしまいます。
追われる集団は出雲の国の建御名方の命(たけみなかたのみこと)(諏訪大明神)追ってきたのは日向の国高天原の武甕槌の命(たけみかずちのみこと)(鹿島神社)の集団、遂においついたところが信濃の国、佐原の追の窪、現在の御手形神社であるといわれています。
剛健で名高い建御名方の命も遂に武甕槌の命に伏し和睦が成立しました。
長い間の争いの「終結の印」として傍らの大きな石に相方の手形を彫り残したといわれています。
建御名方の命はグローブのような大きな右手、武甕槌の命は左手の拳の形が残されています。
降伏した建御名方の命の一族は信濃の国から外へ出ることを許されず、次の民族の移動は伊那山脈大西山のカラマツ峠を越え、鹿塩に移られたそうです。
その後、大鹿村の葦原神社に祀られやがて諏訪大社に鎮座し、祭神としてまつられました。
一方この争いの勝者、武甕槌の命一族は御手形から常陸の国(茨城県)に移られ鹿島神宮として天智天皇以降の朝廷の厚い信望に応えてきたそうです。
佐原諏訪社の本殿は高台の「大宮神社」で、別院として虻川の渓谷に祀る「戸中神社」、そして御手形石の「御手形神社」三社総称して「佐原諏訪社」に登録され、トライアングルな「鎮守の森」を形成しています。
また、この地で大正時代に弥生式土器が発掘され、現在も佐原諏訪神社の社宝となっていますが、この神話とのかかわりもロマンとなって残されています。
 
 *基本文献 昭和10年発行 市村 咸 著「伊那史概要」による

※豊丘村元林区長 三島武士さん、酒井富義理事の協力

   

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