浪合神社と宮内庁管轄の尹良親王墓(ゆきよししんのう)(阿智村浪合)

尹良親王後旧迹の碑

尹良親王後旧迹の碑

親王墓

親王墓

富岡鉄斎の書が掲額されている社殿

富岡鉄斎の書が掲額されている社殿

阿智村浪合宮の原の浪合神社は、室町時代に、この地で戦死した尹良親王の霊を祀ったことがはじまりであるとされています。
 尹良親王は、第96代後醍醐天皇の孫にあたり、父は大河原(現在の大鹿村)を30年間にわたり拠点として北朝打倒に尽くした宗良親王(むねながしんのう)です
 尹良親王は、南北朝(1336~1392)動乱の時代に、父親の宗良親王と共に東国までも遠征して、南朝の再興に奔走しました。
 応永三十一年(1424)8月上野国(現在の群馬県)から三河国に赴くためこの地にさしかかった時、北朝方の土賊に襲われ戦死されたと伝えられています。
 神社手前左側の丘には「尹良親王の御首を埋め奉った場所」として親王墓が築かれています。
 この親王墓は明治14年2月14日より宮内省(現宮内庁)の管轄となり、県内では唯一の場所です。
 明治時代に親王墓として公認されたのには、多くの人の尽力がありました。
 明治13年(1880年)6月に明治天皇西巡の際に、天皇からの勅命をうけて飯田に来た品川弥二郎に対し、浪合の増田平八郎らが資料を携行して親王墓の公認を陳情しました。
 この陳情は一旦退けられましたが、品川弥二郎と旧知の松尾多勢子に仲介を頼んで更に懇願したところ、品川は心を動かされ明治天皇に奏上しました。
 天皇は直ちに西四辻公業(にしよつつじきんなり)を勅使として浪合に派遣し、親王の事績を調査させ、その結果翌14年(1881年)2月、宮内省によって現墓が治定されました。
 境内には、藤原公業卿の勅使参向の碑、宮内大臣渡辺千秋撰文の「尹良親王後旧迹」(ゆきよししんのうごきゅうせき)の碑、神社復興の功労者富岡鉄斎の書、親王慰霊の宝篋印塔(ほうきょういんとう)などがあります。
 また浪合神社のある宮の原地区は、剣道諸流の祖である念流を編み出した慈念和尚の伝説も残っていて、さらに関連した史跡・文化財が点在していて、阿智村では、宮の原一帯を認定地域資源「浪合宮の原歴史の里」としています。

【所在地】阿智村浪合字宮ノ原581番地

今回は佐々木重義さん、牛山和志理事の協力により誌面を作成しました。
 

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