飯田市山本出身の女志士  「松尾多勢子」

松尾多勢子

松尾多勢子

歌碑と江戸中期からある門

歌碑と江戸中期からある門

城山公園 歌碑

城山公園 歌碑

多勢子が読書した文庫蔵

多勢子が読書した文庫蔵

飯田市山本の丘陵地に松尾多勢子の生家竹村家があります。
竹村家のすぐ裏手には伊那谷と木曽谷を結び中仙道へとつながる清内路街道があります。
多勢子は文化8年(1811)、信濃国伊那郡山本村(飯田市山本)で竹村黨盈(つねみつ)、幸子の長女として生まれました。
早くから読書を好み、文書蔵にこもっては読書に夢中な少女でした。
19歳で、伴野村(豊丘村)松尾佐次右衛門に嫁ぎ3男4女の母親となりました。
松尾家では病弱だった夫に代わり家の経営に務めるかたわら、和歌を学びました。
和歌を通し、尊王攘夷思想を持つ平田国学を学ぶと、多勢子は文久2年8月、52歳の時に夫の許可を得たうえで生家に行くとし松尾家を出発し、生家に戻った多勢子は上洛の身支度をし、京都へと出発しました。
その京都は当時、攘夷の空気に満ち、勤王の志士が集まっていました。
多勢子は平田国学を学んでいたこともあり平田国学派の長州や土佐の志士たちと国事を語り合い、公家の歌会にまで参加しています。
長州藩士の品川弥二郎らと交わり、連絡員として重宝がられ、若い志士たちの相談に乗るなど、まさに「勤労の母」とし名を馳せていました。
岩倉具視邸を単身で訪れ、幕府派と疑われていた岩倉の疑惑を晴らしたのもこの時期です。
約半年の京都を後に多勢子は伴野村に戻り、時代は維新を迎えます。
58歳の多勢子は再度上洛すると岩倉家へ分客とし入り、志士のために奔走していたため、「女参事」と呼ばれていました。
岩倉具視等が住まいを東京に移すと、多勢子も東京へ生活を移し引き続き、志士と交わります。
故郷に戻った晩年は、松尾家の家母長とし日々を過ごし、毎年のように生家竹村家へも顔を見せています。

飯田下伊那には数多くの多勢子の歌碑がありますが山本地区にある2つの歌碑をご紹介します。
○山本地区を見下ろす城山公園の歌碑
 初めて上洛するときに故郷が見える峠で詠んだ歌
 「なし野といへる たむけをこえつゝ 旅衣ふりかえれとも秋霧の 立ちへたてたる古さとの空」
○生家竹村家 門脇の歌碑
 83歳最後の里帰りとなった山本の紅葉を詠んだ歌
 「秋山の にしきをりはつるを見て 住人の心の色も匂ふらむ にしきおりかく山本の里」

今回は御子孫の竹村道生さんと遠山幸江理事のご協力により誌面を作成しました。

 
現在でも竹村家の門と文書蔵が多勢子が活躍していたころのまま残されています。

"おんな城主直虎"など活躍した女性に注目が集まる中、郷土の誇れる女性の活躍を取り上げました。

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